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よしながふみ大奥総取締役の瀧山はどんな人?最後やその後についても

よしながふみ大奥の総取締役の瀧山は徳川最後の総取締役です。

家定の代から大奥総取締役となり、家茂の代でも引き続き将軍を支えています。

阿部正弘に見いだされ信頼されての大出世した人。

瀧山とはどんな人物だったのでしょうか。

瀧山の最後とその後についてもまとめました。

よしながふみ大奥:総取締役の瀧山はどんな人?

大奥総取締役の瀧山は武家生まれで陰間に売られた後、大奥入りするという経歴の持ち主です。

よしながふみ大奥(男)史実(女)
名前新之助多喜
出自:武家大岡家御鉄砲百人組大岡権左衛門の娘
大奥入り前陰間で働く
大奥入り18歳・正弘に身請けされる14歳
大奥総取締役家定・家茂家定・家茂
徳川家崩壊後実業家として成功している仲野の実家に身を寄せている
子孫小姓の仲野を養子にする仲野(みね)を養子にする

武家百人組の息子

瀧山は百人組の与力をしていた母親を持ち、美男と言われた父親との間に生まれています。

兄が1人がいる4人家族でした。

幼少期は蘭学を学び将来は蘭学者になりたいという志を持っていましたが、父親の浮気現場に乗り込んだ母親が父親と浮気相手を刺したあと自身も自害。

兄も自害してしまったため瀧山は1人になってしまいました。

武家とはいえ貧乏だったため借金のカタに陰間に売られてしまったのです。

陰間で阿部正弘と出会う

阿部正弘は有能な部下を探していたのか所望する人材を求めて陰間へ行きます。

武家出身の陰間で人気とのことで行ってみると、現れたのが瀧山でした。

容姿の美しさに加えて話が上手いため正弘は瀧山を気に入り、何度も陰間へ遊びに行くようになりました。

話題に上るは政治の話ですが、瀧山の答えはいつも的を得ており正弘を納得させるのに十分でした。

阿部正弘に身請けされ大奥へ

正弘は奉行伊勢守としての功績が認められ老中に任命されます。

信頼できる部下として瀧山をスカウトしたのです。

瀧山は正弘に身請けされ「陰間」が消えるまで、正弘の自宅で侍として修行し大奥入りしました。

家定を家慶から守るために西の丸奥の大奥総取締役に任命したのです。

絶大な力を持つ大奥総取締役

瀧山が大奥総取締役になったのは12代将軍家慶のとき。

家慶が亡くなり、将軍家定の側近として活躍することになります。

そして家定が亡くなったあと14代将軍には家茂が就任し、瀧山は引き続き総取締役として上様を支えて行くことになります。

瀧山は家茂が上洛している間、将軍不在の大奥を切り盛りした人物。

史実では、明治に入ってからの回想録で慶喜は「大奥は瀧山の力が強大すぎた」と述べているとのこと。

瀧山は将軍すら認める大奥のトップだったと言えますね。

徳川最後の総取締役

将軍が家定から家茂になるころ、赤面疱瘡に罹患する人がほとんどいなくなっていたため、家督を男子が相続するようになっていました。

そのため女性が将軍を務める幕府の権力は徐々に弱まっており、外部の者が簡単に大奥へ出入りできるほど権力は弱まっていました。

また、外で侍に会ったとしても頭を下げる町民も見られなくなっています。

家茂は20歳という若さで亡くなってしまい、次の将軍は大奥不要という慶喜でした。

そのうえ慶喜の代で大政奉還しており、政治が再び徳川へ戻ることはありませんでした。

瀧山は徳川最後の大岡総取締役を務めた人物ということになります。

よしながふみ大奥:瀧山の最後とその後

瀧山は江戸城無血開城の日まで大奥総取締役として務めました。

仲野を養子にする

瀧山は小姓の仲野を養子にします。

大政奉還で大奥はなくなり、仲野は一旦親戚の家に行き仕事を探すことになります。

気が利く仲野を出世させる大奥がなくなったため、自分の元で奉公せよとのこと。は、建前で実際には養子縁組の申請を天璋院にしていたのでした。

管理人
管理人
史実でも仲野を養子にしていますが、余生は仲野の実家に身を寄せていたとも言われています。

江戸城無血開城の日に切腹

瀧山はすべての者を見送り、江戸城を出て行くだけでした。

ところが瀧山は長い間大奥で過ごしてきたせいか、ここ以外で生きる場所が見つからなかったとのことで皆が出て行ったあと切腹したのでした。

仲野と胤篤に助けられる

養子縁組の話を中澤から聞いた仲野は、瀧山の元へ駆けつけました。

瀧山は切腹したあとでしたが、致命傷には至っておらず息がある状態です。

天璋院が呼んだ蘭方医によって手術は成功。

実は仲野が瀧山の元へ駆け込むときの声で、瀧山は慌てて腹を切ったのです。

瀧山の着物の中には、以前天璋院に投げつけられた懐中時計が入っており切っ先がそれて致命傷にはならなかったのです。

瀧山のその後:実業家になって成功している

明治四年、瀧山は実業家として成功し胤篤と中澤を雇うことになります。

仲野は吉兵衛と名乗り背も高くなりました。

瀧山は傷が治ったあと暇つぶしに横浜で通詞の真似事をしていたら、織物問屋の主から商談についてきてくれと頼まれ、アメリカ人の館で日本の良いものを紹介することになります。

そうしてるうちにアメリカ人好みの浮世絵や古着などが高値で売れて、次はアメリカのステッキや帽子、靴などを日本で売ったらよく売れて、といった感じで大奥時代の着道楽が役に立ったということです。

*史実では物静かなお婆さんと言われ実業家にはなっていません。

瀧山のお墓は川口市にある

実在した瀧山のお墓は川口市の真言宗智山派の寺院・錫杖寺にあるようです。

瀧山が乗って来た駕籠(かご)は幅約1.5m高さ約1mで修復など一切せず当時のままだそうです。

*通常は非公開

お墓は3つ並んでおり、真ん中が瀧山、左が仲野と養子夫婦で右が叔母の染島。

錫杖寺は日光御成道沿いにある徳川とゆかり深いお寺とのこと。機会があればぜひ行ってみたいですね。

まとめ:よしながふみ大奥総取締役の瀧山はどんな人?最後やその後についても

  • よしながふみ大奥の瀧山は徳川最後の大奥総取締役で家定と家茂に仕えた
  • 元は武家の出自でしたが、家がなくなったことで陰間に売られていた
  • 陰間に遊びに来た阿部正弘に見いだされ身請けされる
  • 家定を家慶から守るために大奥総取締役に任命された
  • 瀧山は江戸城無血開城の日に切腹するが致命傷には至らず一命を取り留めている
  • 瀧山のその後は養子にした仲野と事業を始め実業家として成功し、胤篤と中澤を雇っている
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